歴史調査(縄文と日本人とは何か? 内田樹)

歴史調査(縄文と日本人とは何か? 内田樹)
「日本辺境論」・新潮新書・内田樹著2009という本を持っており、縄文について
記載がないか調べたが、特になかった。しかし、日本人論として、または、人類の次なる進展を考える上で、縄文なるキーワードで新たなる進展が望めないかと考えている私にとって、参考になると思い、一応気になったところを一部ではあるが抜粋し、整理しておく。

「日本辺境論」
1 日本人は辺境人である
日本人はキョロキョロする
梅棹は、「文明の生態史観」で、日本人は自尊心はあるけど、文化的劣等感を持っている、これは辺境民族のせいであろうと言っている。日本文化論が好きなのは、優れた日本文化論を読んでも、すぐ忘れて次の日本文化論に飛びついてしまう。これは、どっかほかでもっと良い知見があるのではという劣等感のせい。従って、決定版を与えず同一の主題を繰り返し回帰することこそが、日本人の宿命である。日本文化の原点や祖型があるわけではなく、回帰する問の形でしか存在しない。(祖型はこれだというのではなく、取り入れるパターン(外来思想の修正パターン)が変わらない?→つまり辺境人)

オバマ演説を日本人ができない理由
アメリカは理念に基づいて作られたが、日本はそうではなく、国民的合意がない。したがって、他国と比較して日本は何かと言うことになる。オバマ大統領就任演説のあと、日本の総理大臣は「世界第一と第2の経済大国が協力していくことが大切だ」とのコメントを発表した。

とことん辺境でいこう
・ナショナリスト、右翼も左翼も他国との相対的劣位をテーマししている、
・日本は世界標準を新たに設定できない、
辺境人の発想はどうすることもでき無いと思っている。私(著者)の書いていることは、日本人の悪口ではありません、この欠点を何とかしろと言っているのでもありません。
日本は違う、よそのに合わせて標準化しようと言っているのではなく、
「こうなったらとことん辺境で行こうではないか」と提案する。
こんな国は歴史上、他に類例を見ない、そこには何か召命があると考える。
日本を普通の国にしようと虚しく努力するよりも、(どうせ無理なんですから)、こんな変わった国の人間にしかできないことをがあるとするなら、それは何かを考える方がいい。
2 辺境人の学びは効率が良い
・司馬遼太郎はアメリカでよまれないか?
(それは世界文学ではなく国民文学だから)
・司馬は 明治40年代があるべき日本人のロール・モデルと言っている。
右翼は戦前、左翼は戦後が日本人としてできが良いと言っている。
いつの時代が、よかったと議論するこは、「日本人とはなにか」という合意がない証拠である。
ユダヤ教の教えに、ゲームはもう始まっている、ルールや勝敗の適否については包括的な判断は保留、何しろこれがなんのゲームなのかさえわかっていないのだから。(ユダヤ人と日本人は似ている)
これは、近代化以降の日本人のマインド、これが悪い方に出ると、虎の威を借りる狐となり、良いで方をする場合もある。
努力と報酬の間に確実に予見せられることは武士道に反する。このような発想そのものが、日本文化のもっとも良質な原型であるであると思う。

3 「機」の思想  略

4 辺境人は日本語と共に 
この本の最後の項目、日本人の召命 には、
日本語の特殊性が紹介してあり、私たちの言語を厚みのある、肌理の細かいものに仕上げていくことに異論はないと思う。それを日本人の召命として粛然と引き受けるべき、と結んでいる。 

感想
辺境人説はなるほどなるほどと思うが、辺境人に徹するとはどういうことか、もう少し基本的な点をわかりやすく書いて欲しかった。しかし、最後の結論には賛成する。
内田樹氏の論評には色々批判があるが、今後評価はどう定まるのか?









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