歴史探訪(神奈川県の史跡 三仏寺・宅間(上杉)氏の墓)

歴史探訪(神奈川県の史跡 三仏寺・宅間(上杉)氏の墓)
2/7(木)横浜市旭区二俣川駅から徒歩10のところにある江戸時代の旗本宅間氏の墓を見てきました。関東管領上杉4家の一つ宅間上杉氏の子孫で、二俣川村を知行地とした旗本です。

駅からの地図です。(寺は図の右上です。)
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三仏寺門前
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宅間氏墓の説明板
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三仏寺
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宅間家墓
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上杉家(出典はウィキペディアが主です。)
上杉氏とは、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。
南北朝時代では重房の孫憲房は妹の清子が足利尊氏・直義兄弟の母であったことから尊氏を助けて功績を立て、上野の守護に任ぜられて関東で南朝方の新田氏と戦った。
その後、憲房の遺児である憲顕・重能兄弟や甥の朝定は足利尊氏・直義兄弟に重用されたが、高氏と対立し、尊氏・高氏と直義・上杉氏の争いになった。 観応の擾乱では重能は殺害され、朝定は病死するなど、雌伏の時期を迎える。
だが、憲顕が正平18年/貞治2年(1363年)に尊氏の次男で鎌倉公方足利基氏の執事(関東管領)に任ぜられ、更に上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。その結果憲顕を祖とする山内上杉家が嫡流となり、一族から 犬懸、宅間、扇谷の諸家が出た(この4家の家名はそれぞれの屋敷のあった鎌倉近郊の地名を由来とする)。
私のブログ、歴史調査(神奈川県の歴史 相模武士団 その5) にも多少上杉氏の歴史をまとめてあります。
https://44806945.at.webry.info/201812/article_8.html

宅間上杉家(出典はウィキペディアが主です。)
初代当主の重兼は勧修寺道宏の実子で、母(加賀の局)は、上杉頼重(重房の子上杉家2代目当主、子供に清子、憲房、加賀の局)の娘であった。兄の重能は観応の擾乱で殺害されたが、重能の養子の能憲(甥)は関東管領に就任、同じく甥で後を継いだ憲孝(能憲の弟)は子の無いまま死去、重能の弟重兼の子孫が血統を継承していった。
永享の乱の際には、重兼の子上杉憲清の子憲直が足利持氏方として榎下城(現 横浜市緑区の舊城寺)に拠った。幕府方に攻められた憲直は榎下城から退いたが、上杉憲実方に追われ称名寺において子の憲家と共に自害した。重兼の子能俊がその後、宅間家を引き継いでゆく。
(系図を見ないと理解できないかも)
榎下城跡は私のブログ、歴史探訪(神奈川県の史跡 茅ヶ崎城跡)を参照ください。
https://44806945.at.webry.info/201810/article_3.html
当初は山内上杉家、犬懸上杉家、扇谷上杉家らと並び称されたが、軍事的に優位に立ったのは山内や犬懸であった。上杉禅秀の乱にて犬懸上杉氏が没落すると、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争うようになり、相模にいた宅間上杉家の存在は埋没し、やがて後北条氏に従属した。
上杉規富のとき小田原征伐を受け、以後は徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでも、上杉景勝には加担せずに徳川配下として出陣した。江戸時代は宅間氏を称し、旗本として存続した。横浜市旭区の浄土宗三佛寺に旗本宅間氏代々の墓が残っている。

感想
山内、扇谷、犬懸はどうなったか調べたが、宅間上杉は?そこで、調べたところ、9月に訪問した榎下城にあった「上杉憲清が築いたと伝えられ、その子憲直が永享の乱に足利持氏に加担して敗れ」と書いた記事に関連していたことがわかり、旭区民としては、近所に宅間氏の墓があることだし、訪問することにした。
大きな寺に、立派な墓がずらりと並んでいて、旗本とはいえ当時の権勢がしのばれる。

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