歴史調査(江戸名所図会に見る横浜と横浜発展史)

歴史調査(江戸名所図会に見る横浜と横浜発展史)
先日私の本棚に 『江戸名所図会』に見る横浜(市民グラフ・ヨコハマ No101 1997年9月発行)という冊子を見つけた。
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本の内容は、今の横浜市を対象にした『江戸名所図会』であるから、鶴見、本牧、六浦、金沢等市内全域を含んでいる。
しかし、東海道歩きで今月から丁度横浜を歩くので、横浜開港前後、昔の横浜村は、どういうところであったをこの本の図会をもとに、少し調べて紹介したい。
『江戸名所図会』横浜弁財天社
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この本に書いてあるこの絵の紹介文(抜粋)
野毛上空からの視点で描いたもの
①手前に芒村(のげむら・実際には村ではない)・姥島(現桜木町付近)が見える。
②対岸には山手側から横浜村の洲が延びて、その先端には弁財天社が描かれている。
注1)かぎ型になっているのは初代象の鼻、
注2)洲の中間に見える人家は、現在の本町あたりで横浜の文字が見える。
注3)山手側に見える人家は現在の山下町あたり。
山下町の方にまず人家ができたと思うが、横浜という名前から本町・山下町あたり両方の人家を含めて横浜村と呼ばれていたのではないかと推察する。
注4)洲は洲干島(洲乾・宗閑・秀閑とも書く)と呼ばれていて、砂浜で田畑には向かない土壌であった。ナマコがとれる。
③右側には入江を挟んで、吉田新田の波除堤がみえ、堤の上には松が点々と植えられている。
注1)波除堤の内側は一つ目沼という沼になっているが、吉田新田の前面に設けられた洪水調節用の沼で、明治3年以降、吉田屋によって掘割川の掘削の土で埋め立てられる。
④上部の遠景には、本牧塙と記されている本牧の丘陵や安房、上総とあるように房総半島が望まれる。

ここから少し脱線する。
野毛上空からの視点で描いたものとあるが、野毛上空なら姥島は見えないはず、(遠望で足元は見えないはず)、本当は台町さくら屋の2階から望遠鏡で見たのではないかと思うが、どうでしょうか?
『江戸名所図会』神奈川総図その三
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『江戸名所図会』神奈川台
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この本に書いてあるこの絵の紹介文(抜粋)
絵にある2階建てのさくら屋の二階の海側に面した部屋で遠眼鏡で海の方を見ている女性の存在が興味を引く。袖の裏(現横浜駅あたり)を眺めるのが、一つの楽しみとなっていたのであろうか。

『江戸名所図会』横浜弁財天社を見ながら、思った感想&疑問は、横浜村からよく
① 日本最大の人口の市(東京都は市ではない)
② 世界最大の人口の都市圏(東京等を含めると世界一)
になったものだということだ。

そこで横浜の発展史を少し調査してみることにした。

横浜とは昔どこをいうのか?
江戸時代の吉田新田開発
この入海が埋立てに適していることに目をつけた江戸の材木商である吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)は、明暦2年(1656年)に江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、明暦2年7月17日(1656年9月5日)に鍬入れ式が行われ、寛文7年(1667年)に完成した。
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右側の図の洲の根元に横浜とある。
つまり、吉田屋が埋め立てようと思った時には、地図にあるように横浜村はあったようなので、昔から横浜村はあったようだ。
室町時代の文献にでてくるとも一部ネットの記事に書いてあるが、文献未確認のため、後日調査したい。

『江戸名所図会』横浜弁財天社が書かれた年代は、1800年代初め
ということらしいので、そこから順を追って横浜の開拓史を整理してみる。
①1800年初め頃
『江戸名所図会』の書かれた年代?
斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれた。前半1–3巻(10冊)は1834年、後半4–7巻は1836年(天保7年)に刊行された(全7巻20冊)。
②1800年代中頃?
江戸時代の横浜新田開発
地元有志で開発し、後中華街となる。
開発年代は?
③1856年
江戸時代の太田屋新田開発
1850年(嘉永3年)から1856年(安政3年)にかけて、三河国碧海郡川崎村出身の太田屋左兵衛が開発者となり、叔父の源左衛門が差配して埋め立てが行われた。
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安政 1(1854)年 日米和親条約(神奈川条約)を締結する。
安政 5(1858)年 日米修好通商条約を締結する。

④1859年
・横浜が開港(旧暦6月2日)される。
・運上所が置かれる。
・横浜町(5か町)ができる。住民の退去101世帯退去、東側(海側)外国人居住区、西側を日本人居住区とした。また、西側に遊郭を設ける。
・吉田橋の架橋と横浜道の開設
・太田屋新田(北側)の埋立
・堀川の掘削
⑤1868年(明治元年)
その後・太田屋新田(南側)の埋立等、周辺が埋め立てられ、9年後明治元年(1869年)には、貿易港としての機能を十分に備えた町になっていた。
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⑦1872年
明治5年5月7日(1872年6月12日となる)に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が仮開業し、2往復の列車が運行され、9月12日(同じく10月14日)には、新橋駅で開通式典、翌15日に正式開業。
⑥1874年
掘割川の開削が完了、「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。

以下横浜市HP(横浜市のあゆみ 略年表)から抜粋
①安政 6(1859)年 横浜町(5か町)ができる。
②明治11(1878)年 郡区町村編制法を公布する。第一大区は久良岐郡から独立して横浜区となり、横浜区長が管轄する。
③明治22(1889)年4月 横浜に市制がしかれる(人口116,193人・面積5.40 km2)。
④明治34(1901)年 第1次市域拡張(人口299,202人・面積24.80km2)。
⑤明治44(1911)年 第2次市域拡張(人口444,039人・面積36.71km2)
⑥昭和 2(1927)年 第3次市域拡張(人口529,300人・面積133.88km2)。
⑦昭和11(1936)年 第4次市域拡張(人口738,400人・面積168.02km2)。
⑧昭和12(1937)年 第5次市域拡張(人口759,700人・面積173.18km2)。
⑨昭和14(1939)年 第6次市域拡張(人口866,200人・面積400.97km2)。

データで見る横浜(2019年1月1日現在)
市制施行……明治22(1889)年4月1日
行政区数……18区
面積……435.43
人口……374万0,944人
世帯数…169万2,610世帯

感想
断片的に横浜の発展史を知っていたが、『江戸名所図会』横浜弁財天社を見ているうちに、いろんな疑問が湧いてきて、調べると結構面白い。地形も砂州で江戸島に似ていて開港に最適な場所である。長崎の出島みたいにして、住民との軋轢を避けたところや、発展できる場所の選定には先見の明があったと、選んだ幕府に感心する。


追記
『江戸名所図会』横浜弁財天社の範囲で開発の記事をまとめたが、横浜駅周辺の開発の歴史も参考になるので追記する。

西区の埋め立ての推移
 
・第一期 1700年代 富士宝永の噴火と吉宗の新田開発推奨以降、尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築いて小さな新田ができた時代。
・第二期 1800年代 天保年間を中心に、岡野新田や平沼新田などの中心部の広大な新田が作られた時代。
・第三期 明治になって、鉄道用地・港湾施設・商用地など都市・港湾機能のための埋め立てが行われた時代
・第四期 昭和以降、みなと未来など新しい都市機能を求めて開発が進んだ埋め立て

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