歴史探訪(街歩き 本郷3丁目~千駄木)

歴史探訪(街歩き 本郷3丁目~千駄木)
6月3日(月) 旧会社の仲間と歩いている月例の街歩きで、本郷3丁目~千駄木まで歩きました。今回も、この歩く会の幹事が、毎回まとめている資料から抜粋して、簡単に整理させていただきます。ただし、ところどころ、私の撮った写真や、感想、独自調査した内容を適宜加筆追加します。

歩いた経路を下記に示します。
本郷三丁目駅 ~ 櫻木神社 ~ 本郷薬師~真光寺~かねやす ~ 見返り坂~菊坂~菊富士ホテル跡 ~ 啄木ゆかりの赤心館跡 ~宮沢賢治 旧居跡~ 樋口一葉旧居跡・樋口一葉ゆかりの井戸 ~ 旧伊勢屋質店 ~ わだつみのこえ記念館 (休館)~法真寺~ 一葉桜木の宿跡~追分一里塚跡 ~ 西教寺 ~ 願行寺 ~ 東京聖テモテ教会 ~ 夏目漱石の旧居跡 ~ 海蔵寺 ~ 清林寺 ~ 光源寺・駒込大観音 ~ 蓮光寺 ~ 専念寺~団子坂 ~ 森鴎外記念館・観潮楼跡 ~ 千駄木駅

真光寺
境内にあった本郷薬師は縁日に夜店が出て有名であった。
真光寺(戦災にあい世田谷に移転)境内に寛文10年(1670)薬師堂が建立された。
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櫻木神社
太田道灌が江戸城築城の際、菅原道真の神霊を京都北野の祠より北野天神を江戸城内に勧請し、創建したのが始まりとされている。名前は桜の馬場にあったから。拝殿右手奥に見送稲荷神社が鎮座する。
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かねやす
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
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見送り坂・見返り坂
江戸所払い(江戸追放)の者が、この別れの橋で放
たれ、南側の坂で見送り人が涙で見送ったから「見送り坂」、追放者が北の坂で振り返ったので「見かえり坂」と名付けられた。
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菊坂
江戸時代、辺りは菊畑が広がっていたが、明治以降は、樋口一葉や坪内逍遥、石川啄木、宮沢賢治らが住み、“文人の町となった。本郷台地の“谷”に当たり、かつては川が流れていた。
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菊富士ホテル跡
宿泊者は、竹久夢二、大杉栄、菊池寛、谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、直木三十五、三木清、広津和郎、正宗白鳥、宮本百合子、石川淳、坂口安吾、といった当時を代表する人々だった。
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啄木ゆかりの赤心館跡
22 歳の明治 41(1908)年 4 月 28 日、文学の志止み難く 3 度目の上京をした。上京して与謝野寛・晶子の千駄ヶ谷の家に滞在した啄木は、5 月 4 日、同郷の金田一京助を頼って、ここにあった「赤心館」(本郷区菊坂町 82番地)に移って下宿し、執筆に励んだ。赤心館での生活は 4 ヶ月。その間のわずか 1 ヶ月の間に、『菊池君』『母』『ビロード』など、小説 5 編、原稿用紙にして 300 枚にも上る作品を完成した。
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宮沢賢治 旧居跡
宮澤 賢治は花巻市生まれの詩人・童話作家。
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樋口一葉旧居跡・樋口一葉ゆかりの井戸
父の死後、一葉は母と妹の 3 人家族の戸主として、明治23(1890)年 18 才のときに、本郷菊坂町 70 番地(現:本郷 4-32-31)に移り 3 年間住む。一葉の家は残っていないが、今も一葉が使った堀抜き井戸は残されており、当時を偲ぶことができる。
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旧伊勢屋質店
暮らしに困った樋口一葉がたびたび通った旧伊勢屋質店の土蔵(国登録文化財)も現存する。
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わだつみのこえ記念館 (休館)
本日休館のためパス。
法真寺
日本のお寺とキリスト教会のハイブリッドになっているのは、ご住職が以前アメリカのお寺で仕事をしていたからだそうである。腰衣観音の右手前には「一葉塚」があり、その後の灯籠の奥には、草草紙を手にする少女・樋口一葉の銅像も置かれている。
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一葉桜木の宿跡
樋口家は法真寺の東隣りの地に移り住んだ。明治 9 年から明治 14 年までの 5 年間(一葉 4~9歳)をここで過ごした。樋口家にとって最も豊かで安定していた時代であった。
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追分一里塚跡
旧中山道(現本郷通り)日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があり、18 世紀中頃まで榎が植えられていた。
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西教寺
朱塗りの表門(朱殿門、旧姫路藩藩邸移築屋敷仕切門)は、徳川家の重臣酒井雅楽頭(さかいうたのかみ・井伊家と並ぶ大老の家柄)の屋敷から譲り受けて、明治 7(1874)年移築されたものである。
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願行寺
木造阿弥陀如来坐像 (文京区指定文化財)と、門の中に入った正面が朱色の「不動尊堂」が有名である。
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東京聖テモテ教会
1902 年米国宣教師によって建てられた日本聖公会に属する教会である。

夏目漱石の旧居跡
夏目漱石旧居跡の碑文には次のように刻まれている。
「夏目漱石は明治36 年 1 月英国 00から帰り 3 月 3 日ここ千駄木町 57 番地に居を構へた。前年 2 箇年は一高と東大の授業に没頭したが、38 年 1 月『我が輩は猫である』『倫敦塔』等を発表して忽ち天下の注目を浴び、更に『猫』の續稿と竝行、39 年初から『坊っちゃん』『草枕』『野分』等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした歳末 27 日西片町に移り翌 40 年 4 月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文發祥の地である。森鴎外も前に(自明治
23 年 10 月至同 25 年 1 月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。」
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海蔵寺
江戸時代における富士山信仰の開祖である身禄行者の墓 がある。
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清林寺
三重塔 現在、飛鳥時代様式で三重塔が建設中。
光源寺・駒込大観音
元禄 10(1697)年造立の高さ 2 丈 6 尺(約 8m)の木彫十一面観音像が安置さ
れていた。『江戸名所図会』にも掲載されている著名な観音像であったが、昭和 20(1945)年 5 月 25 日夜半の東京大空襲によって全焼の災いに会い、観世音立像も堂宇も焼失してしまったが、平成 5 年に再建された。
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蓮光寺
浄土宗の金池山功徳院蓮光寺
専念寺
東都六地蔵第 2 番(金銅仏) 江戸時代に東都六地蔵の第 2 番として有名であった地蔵尊は、この奥の道端(元専念寺境内、本堂は戦災で焼失。)に露仏として安置されている。円頂立姿、宝珠と錫杖をもつ高さ 1.8m ばかりの鋳造である。(寺は無くお地蔵様だけ)
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団子坂
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。

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森鴎外記念館・観潮楼跡
鴎外が後半生の 30 年間を過ごしたこの地に、2012年、森鴎外記念館が開館。
鴎外は、後に夏目漱石が小説『吾輩は猫である』を書いたことで知られる「猫の家」から、明治 25(1892)年にここに移った。2 階の書斎から東京湾が遥かに見えたので、観潮楼と名づけた。
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感想
文京区は本郷をはじめ小説家、文学者の旧居跡等の史跡がいっぱいで、本の好きな人なら、見るとこ満載。
本日は、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治の旧居跡見たが、時代の感覚がつかめないので、整理してみる。
① 森鴎外(1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)
明治23 年 10 月至同 25 年 1 月まで猫の家に住み、観潮楼に引っ越した。
文芸・評論的啓蒙活動
1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表。
1890年(明治23年) 『国民之友』に「舞姫」を発表。
1916年(大正5年) 『中央公論』に「高瀬舟」、『新小説』に「寒山拾得」を発表。

② 夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)1903年明治36 年猫の家に引っ越し、1905年明治38 年 1 月『我が輩は猫である』『倫敦塔』等を発表した。
1916年(大正5年)胃潰瘍のため死去、小説家としては12年間活動

夏目漱石は、森鴎外の5歳年下で、舞姫(1923年)の13年後、森鴎外の住んでいた家に引っ越し、その2年後(舞姫の15年後)吾輩は猫であるを発表、12年間小説を書き、漱石の死後6年後森鴎外死去。

③樋口一葉(1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)
内幸町の府庁官舎で生まれ、その後本郷に引っ越し(4~9歳桜木の宿)。
1886年(明治19年)中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門。(令嬢であった田辺花圃(本名・龍子)と萩の舎の二才媛と呼ばれた。)
1887年(明治20年)に兄泉太郎は明大を退学し、その後則義の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務していたが、12月27日、肺結核で死去。一葉は父を後見に相続戸主となる。
1889年(明治22年)、警視庁を退職した父、則義は家屋敷を売った金をつぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参画するが、出資金をだましとられて失敗、負債を残して同年7月に死去する。(これから生活苦が始まる。)
1890年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と3人での針仕事や洗い張り、下駄の蝉表(せみおもて。細い籐を編んだもの。夏用の駒下駄の表に張るのに使う)作りなどの賃仕事をするが、それだけでは足りず、方々に借金を繰り返す苦しい生活を強いられる。
1893年 生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。
1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に転居する(島崎藤村他来客多し。文学サロンのようになった)
1896年11月23日、丸山福山町の自宅において、24歳と6ヶ月で死去(肺結核)

葬儀は11月25日に他人にきてもらうだけの営みができないという理由で、身内だけ十数人で築地本願寺で質素に行われた。一葉の才を高く評価し、その早世を惜しんだ森鴎外は、”陸軍軍医総監・森林太郎”としての正装の上で、騎馬にて棺に従う参列を打診したが、遺族に丁重に断られている。

小説
闇桜(1892年3月『武蔵野』)
たけくらべ(1895年1月 - 1896年1月『文學界』)
にごりえ(1895年9月『文芸倶楽部』)
われから(1896年5月『文芸倶楽部』)

夏目漱石の妻・鏡子の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が東京府の官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談にしたという。なおこの他、坂本三郎(秋田、山梨県知事)という許嫁がいた。こちらは、父則義に嫌われて破談になっている。
近代以降では最初の職業女流作家である。24年間の生涯の中で、特に亡くなる間際の1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。

樋口一葉は1895年に後世に残る作品を書いたわけで、1905年明治38 年 1 月『我が輩は猫である』はその10年後ということになる。

④石川啄木(1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)
1908年(明治41年)4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。5月4日、盛岡中学で一学年上だった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。逼迫した生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。
1911年病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町へ移る。
1912年(明治45年)4月13日、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。
4月15日、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。
追記
有名な歌が残っているが、エピソードからすると、歌から想像する人物とは少し違うようである。すべて想像の産物。(カンニングで中学退学、借金魔で使い道は花街(金田一春彦談)、母を背負ったことなし(妹談))
「働けど働けど・・・・・」それで本人はどうしたかというと、借金を踏み倒して、花街へ繰り出した。という訳である。

⑤宮澤賢治(明治 29(1896)年~昭和 8(1933)年)
1921年(大正10年)1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家出。本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める。働きながら多くの童話を執筆。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻る。
生前は全く無名で、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。
生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。
草野心平 - 賢治再評価に最も尽力した人物。ただし交際は文通が主で、生前に面識を得ることはなかった。
高村光太郎 - 草野を通じて生前の賢治と交際があり、死後の著作刊行に協力。戦時中には賢治の弟清六のつてで花巻に疎開している。

宮澤賢治は、1921年本郷に数か月住んでいた訳でで、漱石、鴎外、一葉とは時代が異なる。

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