歴史探訪(神奈川県立歴史博物館 かながわの遺跡展「縄文と弥生」他)

歴史探訪(神奈川県立歴史博物館 かながわの遺跡展「縄文と弥生」他)
2019年12月5日(木)久しぶりに神奈川県立歴史博物館を訪問して、下記展示を見たので、簡単に報告する。
① 令和元年度 かながわの遺跡展「縄文と弥生-時代と文化の転機を生きた人々-」
② コレクション展「桜井家文書」ー戦国武士がみた戦争と平和ー
③ 常設展のトピックス展 「関東足利氏・釈文集」

① 令和元年度 かながわの遺跡展「縄文と弥生」
■会期:2019年11月27日(水)~12月22日(日)
■観覧料:常設展観覧券でご覧いただけます。
一般300円(250円)、20歳未満・学生200円(150円)、高校生・65歳以上100円(100円)
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 縄文時代から弥生時代への移り変わりは、狩猟採集社会から稲作農耕社会へと変化を遂げる転機であり、歴史上の大きなターニングポイントであったといえます。
 神奈川県域をはじめとした関東地方や中部高地では、縄文時代中期に極大化した遺跡数は、後期を迎えると減少に転じ、後期後葉以降から晩期にかけて激減します。
 その背景として、世界的な気候の寒冷化により植生が変化したことで食料資源が枯渇し、狩猟採集社会が行き詰まり、その窮状を打破すべく稲作を取り入れることで、歴史的な転換がはかられたとされてきました。
 しかし近年、停滞あるいは衰退と評価されてきた縄文時代後・晩期の社会観を見直す動きが出てきています。後・晩期社会が寒冷化を積極的に利用し、植物質食料の多角化を図り、気候の変動に適応したことがわかってきたためです。
 このような視点から、変動する自然環境に適応した人々が縄文時代から弥生時代へと移り変わる時期をどのように暮らしたのかを探ることにします。(以上神奈川県立歴史博物館のHPよりコピー)

展示見学記
入場時に今回の遺跡展の立派なカラー写真いりパンフレット(30ページ)がもらえる。展示は、神奈川県の遺跡発掘に関して、図や写真および土器や石器及び木の実や穀物の遺跡発掘物が数多く展示してある。内容は、上記HPの説明文を実証するような内容の展示である。
以下パンフレットから抜粋
・従来縄文中期では台地で大規模な集落で暮らしていたのが、中期末から冷涼化して食料が枯渇してきたが、宮久保遺跡では、小集団で低地に位置し、流水を使って堅果類の処理を行っている。(生活スタイルの変化・技術革新でしのいだか?)
・縄文晩期になると、関東・中部に浮線文土器ががあらわれ、神奈川県では、下原遺跡では、住居跡がみられるが、遺跡が激減して、晩期の後期には集落が見られなくなる。
浮線文土器には、あわ。きび、の圧痕が多数見つかっている。
・弥生時代前期後半の中里遺跡からは、炭化イネが見つかっている。土器は、亀ヶ岡式土器の流れを組む変形工字紋(こうじもん)土器や東海地方経由遠賀川系土器など様々な様相がみられる。(いろいろなところから移住してきた?)
・弥生時代中期・・・突如中里遺跡で大規模な集落と墓域、竪穴住居跡102軒、掘立柱建物73棟、土杭882基、井戸6基など
          水田跡は発見されていないが、イネの炭化物、土器や石器の種類(耕作用)から雑穀・イネの栽培が確認される。

② コレクション展「桜井家文書」ー戦国武士がみた戦争と平和ー
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当館所蔵の『桜井家文書』は、小田原北条氏家臣であった戦国武士桜井氏の家伝文書です。彼らは戦国時代に各地の戦争に参加しながら、やがて江戸時代の到来という平和の時代を迎えることになります。『桜井家文書』を通じ、ある武士が体験した、戦争から平和へ転換していく社会の変動を、古文書を紐解くことでよりリアルにお伝えしていきます。
神奈川県の動画広報「かなチャンTV」にて、担当学芸員が紹介しています。ぜひご覧ください。
(以上神奈川県立歴史博物館のHPよりコピー)

展示見学記
桜井武兵衛という北条家の武士は、北条3~5代の当主につかえ、感状・朱印状(北条家の虎印が押してある)を多数もらい、また、小田原城明け渡し時に北条氏直朱印状(籠城をがんばった感状・7月17日付け)をもらっている。
(ただしこれは敗者の感状で北条家当主の虎印ではなく私印(遠慮した)
その後、多分家康の斡旋で結城秀康・松平忠直につかえ、感状・朱印状をもらっている。忠直お家騒動のわかる文書もある。

③ 常設展のトピックス展 「関東足利氏・釈文集」
新規入手文書として豊臣秀吉朱印状が展示してある。
この文書は、桜井武兵衛が朱印状を7月17日にもらった同じ日に、秀吉が鎌倉左兵衛督(足利頼淳・古川公方)あてに出した朱印状である。秀吉が古河公方の権威を関東統治に利用しようとして、喜連川に所領を与えた。ということが説明できる一連の文書。
古河公方は江戸時代喜連川藩として残る。(5000石程度で徳川家家来ではなく、大名のような扱いだが、参勤交代なし、大名・旗本・寄合・高家等の分類外)
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感想
神奈川の遺跡展・縄文と弥生というテーマであるから、おもしろそうだと思いでかけたが、神奈川県の遺跡だけで、これだけ縄文から弥生への移り変わりを説明できる資料がそろっていることに驚いた。神奈川県は旧石器・縄文・弥生と遺跡が多く、年代の検出精度も良いから、神奈川県の遺跡だけで、時代の移り変わりを、いろいろな点で論じやすい地域であるのだろう。
家に帰って、横浜市歴史博物館発行の平成29年度企画展「横浜に稲作がやってきた!?」という資料(120ページ)を、見てみると、今回の展示とかなりダブっているが、弥生時代とは?という定義も、いろいろあり、難しいことが解る。
土器で弥生時代とするか?イネの栽培?雑穀は?縄文時代にも雑穀は栽培されていた?
そこで弥生時代の開始の定義の解決策は、「灌漑稲作の開始」とするとか、「農耕文化複合の形成」等にするとか、弥生文化(時代ではない)の要素を「灌漑稲作の開始」・「環濠集落」・「青銅器祭祀」とする案とかいろいろ論議されているようだ。
常設展では、神奈川は日本で一番遅れて稲作が始まったとあり、弥生時代が一番遅れて始まったように書いてあるが、「横浜に稲作がやってきた!?」では南関東の弥生時代開始時期は異論があるようだ。(定義次第で変わる)
従って、神奈川県の弥生時代の開始については、今回の展示では話がややこしくなるのであまり説明はなく、移り変わりに焦点を当てて展示してあると感じた。

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