歴史探訪(十日市場~中山 杉山神社・他)

歴史探訪(十日市場~中山 杉山神社・他)
2019年12月14日(土)私の住んでいる横浜若葉台団地の最寄駅は十日市場ですが、天気が良いと時々、十日市場から中山までの恩田川(鶴見川の支流)沿いに散歩をします。今日は天気も良いので、恩田川沿いの寺社・お寺を回って中山まで行くことにしました。
十日市場は長津田から神奈川への神奈川道沿いにあり、十日市場~中山へ行く神奈川道の途中には宝袋寺や榎下城址(舊城寺)がありますが、本日は神奈川道沿いではなく佐江戸からこどもの国に行く道にある神社・お寺に行きます。

経路
十日市場駅~寶袋寺~恩田川~山下小学校発祥の碑~杉山神社(西八朔)~山王神社(西八朔)~恩田川~観護寺~念仏橋(恩田川)~中山駅

十日市場の歴史
寳袋寺のHPに十日市場の歴史が載っていたので紹介します。有名な郷土史家 相澤雅雄氏の記述です。
【原始・古代】
十日市場での人々の生活の痕跡は先土器時代に始まります。霧が丘団地建設時にナイフ形土器などが発見されました。調査結果から居住場所ではなくキャンプ・サイトの性格を示唆するものでした。霧が丘ではさらに縄文時代草創期~晩期にかけての遺物も見つかっています(『霧ケ丘』『緑区史 資料編 第一巻』)。
追記:この頃は落とし穴の遺跡として有名(ブログ筆者追記)HPには霧が丘の霧が池があったことや、その跡地に
大弁財功徳天社が建てられていることも書いてあります。
寳袋寺付近からは、縄文中期の土器片が多数発見され、遺跡が広範囲に及んでいたことが推測されます。
町の西方に当たる北門(ぼっかど)地区では、6世紀後半以降の古墳群である人物埴輪をともなう円墳が築かれ、「北門古墳群」と名づけられ注目を集めています。出土した埴輪は埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯址の生産品と推定され、埴輪の流通が及んでいたことが確認された古墳群です(『横浜市緑区 北門古墳Ⅰ』)。
【中世】
中世の鎌倉道伝承がある神明下(台)付近では、毎月十日に市が開かれていたと伝えられ、今日の地名「十日市場」の由来とされています(『新編武蔵風土記稿』)。これを裏付けるかのように神明下からは、南北朝期~室町期にかけての板碑や15世紀中葉の天目茶碗や北宋銭・香炉、15~16世紀と推定される掘立柱建物跡など中世の遺物が多数発見されています(『横浜市緑区十日市場町 長光廃寺跡』)。
【近世】
近世には、武蔵国都筑郡十日市場村でした。町の北方を東西に流れる恩田川流域には水田地帯が広がっていますが、近世初期には恩田村地内の恩田川に北門堰が築かれ、十日市場村ほか下流の6ヶ村がこの用水を使い稲作を行ってきました。河川改修前は蛇行がひどく、ことに寳袋寺がある東端の山崎付近で最も蛇行していました。戦前、日照りが続いた時には、村民が竹筒を持って相模の雨乞い神で知られる大山へ水を貰いに行き、寳袋寺の釣鐘にその水をかけて祈願を行ったといいます(石井利輔氏からの採録)。現在でも流域の水田地帯では稲作が行われ、堤防には散歩やジョギングをする人がよく見られます。
追記:その一人が私です。
村は、正保3(1646)年以来、旗本の知行地となり、幕末に至りました。
江戸時代の戸数は50軒~58軒ほどでした。安永7(1778)年には、江戸の浪人で寺子屋師匠の清水礼吉が没しました。現在、寳袋寺に墓石があります。この辺りでも早い時期に開設された寺子屋です。また寳袋寺13世の大円孝道大和尚や、23世恭拙鱗善大和尚も寺子屋を開いていました。当時の村の学問の様子がうかわれます。
【近・現代】
明治元(1868)年に村内の戸数は64軒を数えました。同5年に学制が発布されると、翌年には中村学舎が村内に創立され、近代教育が始まりました。同41(1908)年には横浜鉄道(現・横浜線)が開通し村内を通った。この頃になると、農家は農業生産物の他に養蚕を行うようになってきました。村農会や青年会活動の展開などにより村の近代化が図られていきました。
昭和14(1939)年4月に横浜市に編入され港北区十日市場町が誕生します。当時の人口は445人、150世帯。昭和30年代頃までは農業を主体とし、その後は横浜市営住宅の建設、後谷方面の住宅開発、土地区画整理事業、同52年の横浜線十日市場駅(請願駅)の開業などが行われてきました。
ことに高度経済成長による首都圏の人口急増の影響を受け、農村からマンションや住宅が立ち並ぶ東京近郊の住宅街の町へと大きな変貌を遂げたのです。
(郷土史家 相澤雅雄記)


寶袋寺
お寺のHPより
曹洞宗、山号は八幡山とし、本尊の聖観世音菩薩は木造の坐像で高さは一尺ほど。鎌倉の仏師運慶の作と言われています。寺号「寳袋」は、建立地から古い巾着が掘り出された事によるものです。巾着は金銭などを入れる袋、いわば「宝の袋」であり「寳袋寺」という寺号になったといわれます。お寺のHPより

本堂
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お寺から恩田川(西八朔)方面遠望
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恩田川
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山下小学校発祥の碑
寳袋寺の坂を下りて恩田川を渡ったところに山下小学校発祥の碑という説明板あります。それによると明治5年7月開校で横浜市最長130年の記録を有すると書いてある。田舎でも、江戸時代 寺子屋が開かれていた記録が残っており、ここら辺は教育の盛んな地域であったのかもしれない。
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杉山神社(西八朔)
ウイキペディアより抜粋
五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。
杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。
平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官幣を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町、都筑区中川および茅ケ崎中央、港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている。
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大国魂神社宮司がこの神社こそ本社であると言っていることを書いた碑
大國魂神社と杉山神社は当初から深い関係にあり、大國魂神社に祀られている八神の一つ六之宮の杉山大神は、西八朔の杉山神社の祭神だとされています。
 これは江戸時代末の六所宮の神主だった猿渡盛章の調査によって定められ、以来西八朔の杉山神社と大國魂神社との関係は今に続いています。根拠として挙げられるのが、「八朔(はっさく)」という地名にある。
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日枝神社(西八朔)
山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社より勧請を受けた神社の社号。
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観護寺
印融法印の墓があるので有名なお寺です。
観護時および念仏橋については下記私のブログを見てください。
歴史探訪(神奈川県の史跡 印融法印の史跡)
https://44806945.at.webry.info/201906/article_5.html
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念仏橋(恩田川)
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感想
寳袋寺のHPから十日市場の歴史が判って、参考になった。
また、東海道や横浜市内を歩いているが、あちこちに杉山神社が出てくる。近所に本社の4つの候補のうち一つがあることを知り、前から行ってみたいと思っていた。いつも散歩している恩田川から少し横道に入るが、大変よく神社の雰囲気が残っている地元の神社であった。毎年元旦のお参りは、長津田の王子神社か田名駅近くの白鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)に行っていたが、今年は杉山神社に行ってみようと思う。

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