歴史調査(渋沢栄一 『青天を衝け』高島秋帆)

歴史調査(渋沢栄一 『青天を衝け』高島秋帆)
2021年3月3日(水) 新型コロナのために、外出を控えており、歴史探訪ができないので、ブログが止まってしまった。そこで、歴史探訪を再開するまで、大河ドラマ『青天を衝け』について、色々歴史調査して掲載することにした。今回は、大河ドラマ『青天を衝け』を第3回まで見て、おやっと思ったことについて、少し調査することにした。内容は、個人的に興味を持って知り得た事柄を、脈絡なく記述するので、全く個人的メモ程度なものである。
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① 高島秋帆について
私は、大河ドラマは、歴史的事実か、脚色した架空の物語か判らなくなってしまうので、通常は見ないが、今回の渋沢栄一は、時代が新しく無茶苦茶の脚色は無いと思ってみている。
『青天を衝け』の第1回から第3回をみて、渋沢栄一の幼少期に高島秋帆が出てくるのは歴史的事実か気になってしまい、少し調べることにした。

高島秋帆は名前は知っているが、良く知らないので、ふかやデジタルミュージアムから高島秋帆と渋沢栄一の解説を下記にコピーする。
http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/index.html
人物館2(江戸):高島秋帆(たかしましゅうはん)
http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu02/1487555460716.html
高島秋帆(たかしましゅうはん)
生没年 1798-1866
解説
 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。
 父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。
 天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。
 しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。写真の碑がある場所は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。
 日本の西洋式兵学の先駆者である。

渋沢栄一
人物館3(明治)渋沢栄一(しぶさわえいいち)
http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu03/1488859912928.html
生没年
1840-1931
解説
渋沢栄一翁は、「論語」の精神を重んじ、「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立に努め、設立に関わった企業は、500余りに及んだ。
また、社会公共事業にも熱心で、「忠恕のこころ」(まごころと思いやり)を基本理念とし、数多くの病院や学校づくりに尽力するほか、国際親善にも寄与した。

上記から、高島秋帆は1853年まで岡部藩預かりの身とあるから、その時渋沢栄一は同じ岡部藩で13才だったことになる。いくら昔は早熟だったてゃいえ、接点があるとはかんがえられない。
また、「父 渋沢栄一」渋沢秀雄著でも、栄一の昔話に土方歳三の話は出てくるが、高島秋帆は出てこないので多分会ったことは無いのだと思う。それとも、その後 尊王攘夷運動に走る栄一は高島秋帆に影響を受けたという記録がどこかにあるのだろうか?

しかし、高島秋帆との接点は、晩年の高島秋帆紀功碑建設支援のみであろう。
栄一は晩年になっても村の神社の獅子舞には毎年行っていたので、郷土を大切にしていたことが解る。
従って、郷土の有名人、高島秋帆紀功碑建設に協力したのだと思う。
渋沢栄一記念財団・デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に高島秋帆を入力して調べると、下記のように碑建設しか出てこない。
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/biography.html
高島秋帆 のすべてを含むページは 17349 ページ中、 3 ページ見つかりました。
①目次【綱文】 第49巻 。20款 高島秋帆紀功碑建設...
②本文 第49巻 DK490091k 20款 高島秋帆紀功碑建設...
③資料リスト 第49巻 DK490091k 20款 高島秋帆紀功碑建設...

渋沢栄一と高島秋帆は同じときに同じ場所にいたから、会ったことを100%否定はできないから、ドラマとしては、良くできているともいえる。しかし、会ったことはないという状況証拠から、私としてはこういう歴史的事実に基づかないストーリーはあまり好きではない。

第1回では、冒頭の馬に乗った慶喜を追いかけるシーンがあるが、これも、史実とは違うドラマ化で有ろう。出世のきっかけを、慶喜との出会いに象徴するシーンと思うが、昔、見たか読んだかした太閤記を思い起こされる。

② 徳川慶喜の出番の多さについて
この番組は、渋沢栄一が主役であると思っていた。ところが、徳川慶喜の出番が異常に多いのにびっくりしている。渋沢栄一にとって、徳川慶喜が家臣にしてくれなかったら、その後の活躍はなかったののは確かであるが、あたかもダブル主役のような話の進め方である。ドラマの後半も徳川慶喜は頻繁に出てくるのだろうか?
③ 家族構成について
栄一の父市郎右衛門は中の家から東の家に来た養子で、まだ祖父敬林は生きていたのだが、家族に入っていないのは何故だろう。影のうすい、話題の無い人だったからいないことにしたのかな?

感想
大河ドラマであるから、史実とは違った脚色もやむを得ないが、間違った知識を一般の人に広めるようなことはできるだけやめてほしいと思う。高島秋帆と渋沢栄一とを結びつけるのは、個人的にはやりすぎだと思う。
史実を知りたければ、歴史書や伝記を読めばよい、ドラマだから楽しめばよいという意見もあろうが????


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